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11月23日(木)新橋にて懇親会開催

11月23日(木)新橋にて懇親会開催
特定非営利活動法人JYMA日本青年遺骨収集団

ペリリュー会代表横山高司によるJYMAへの寄付及び個人的に応援したいとの思いで2カ月に一度ほどのペースで開催しております。この懇親会は、限られた予算の中で、戦没者の遺骨収集のためにボランティア活動を行う日本の大学生たちに感銘を受け、微力ながら、おいしいものをお腹一杯食べて頂きたいという目的で行っております。

翌日は、晴海ふ頭寄港式に参加。遺骨収集のためにボランティアとして参加している学生たちをお迎えしました。彼らは硫黄島をはじめ、ガナルカナル島、パラオ、ロシア・・と今でも遺骨収集活動している若者がたくさんいることを、この場を借りてお伝えしたいです。

今年12月にJYMAよりなんとパラオで遺骨収集活動を行うことが決まりました。来年は天皇陛下が公式行事でパラオへ御行啓らせられることも決まりました。

これは昨年の硫黄島での遺骨収集活動での話ですが、遺骨が見つかった夜、ホテルの外より、「万歳、万歳、万歳!」と万歳三唱が聞こえてきたそうです。それも、ばんざーいではなく、ばんざい!と間髪なく気迫を込めた三唱が聞こえたということは、大日本帝国時代の歓びの三唱ということのようです。

彼らの活動をぜひ全国の皆様より応援して頂きますことお願い申し上げます。

JYMA日本青年遺骨収集団 http://jyma.org/history

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日本青年遺骨収集団JYMAへ寄付

 
 特定非営利活動法人「日本青年遺骨収集団JYMA」様へ寄付をさせて頂きましたことをご報告させて頂きます。

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 今後のペリリュー会との相互連携および「日本青年遺骨収集団JYMA」様の活動支援を行うため、ペリリュー会主催で懇親会を6月3日(月)新橋にて開催致しました。

 JYMA理事長の赤木夫妻をはじめ、副理事の井上様、理事の高橋様ほか学生4名と交流をさせて頂き、今後の活動への継続的なお付き合いをさせて頂くこととなりました。

 また、JYMA様の年次報告書「今を語らん」賛助広告にペリリュー会を掲載させて頂くこととなりましたのでご報告します。

 次回の懇親会日程は、7月28日(月)19時より新橋で開催予定です。

2013年6月末日 パラオ・ペリリュー島へ出立

2013.05.15 Invoice-2

多くのご関係者様の協力を得まして、船便で物資を送付完了致しました。

日本全国で戦争の痛みと絆を分かち合い、「ここまで日本人一人一人はできるんだ!」という姿を世界に残していきたく、2013年6月末日にペリリュー島戦争博物館の改修工事を執り行うこととなりました。

今年の終戦記念日に向けて、メディアの方々のご協力や、皆様より多くのご寄付を頂ければ幸いでございます。

パラオ政府並びに島民の方々がこの日を心待ちにしているそうです。彼らは戦前に日本人が教えてくれた教育手法や志の有り様を学び、ご恩を忘れず、日本の名字を継いでいる人も多くおります。今後とも何卒本プロジェクトをよろしくお願いします。

展示品収集完了、船便にてパラオ島へ

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自衛隊関係者のご協力を得まして、旧日本軍の兵隊の人形及び各種武装品(レプリカ)を入手することができました。また、武装品につきましては御徒町の問屋街のお店のご協力を頂きました。

弊社の事務所の入り口より異様なムードを放っております。
弊社はまったく色には染まっておりません。
軍事研究家として40年研究している横山高司の事業であります。

また、各種展示用パネル20枚を併せて、パラオ・コロール島へ船便に向けて、現在は6月中旬に到着予定となっています。

現地での受け取り体制も、大使館や州知事レベルで万全の状態です。

中川大佐の顔写真頂きました

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皆様のおかげをもちまして、中川大佐の写真を入手することができました。
本当にありがとうございます。

展示パネル一部 是非ペリリュー博物館でご覧ください

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縮小版のみアップしております。パネルはペリリュー博物館にてご覧いただけます。

米軍侵攻前の状況と日本軍の方針

第一次大戦後、ドイツ領であったパラオを含むカロリン諸島は日本の委任統治領となり、日本の統治下コロール島に南洋庁が置かれ1943 年には6,000 人の島民と23,000 人の日本民間人が居住していた。

1941 年12 月の日米開戦以来半年間、日本軍は各地で戦勝を収め広大な地域を占領したが、1942 年6 月のミッドウェー海戦に大敗し、その後戦局は加速度的に悪化の一途を辿り、ソロモン諸島や東ニューギニアを失い、1943 年11 月にはギルバート諸島のマキン島、タワラ島の守備隊が全滅、1944 年2 月17 日には日本軍の一大根拠地であったトラック島が米海軍機動部隊の空襲を受け機能を失い、周辺のマーシャル諸島、クェゼリン島、ルオット島も米軍占領下となった。

日本海軍が意図していたトラック島を根拠地とした作戦は不可能になり、替りにパラオ諸島に根拠地を移す事になったが、1944 年3 月30 日米海軍機動部隊はパラオ諸島にも空襲を加え日本軍の所在船舶、航空兵力は壊滅した。

日本軍の計画では、1944 年春までに太平洋上の日本軍が確保している島々にある飛行場に、航空部隊を主とする反撃戦力を整備し、米軍に対抗する予定であった。その為には、島々の飛行場を確保せねばならず陸軍兵力を重要な島々に配置する事となった。

日本陸軍は、主力を中国大陸に置いていたが、遂事一部兵力を太平洋方面に兵力を移動する事となり、パラオ諸島にも最初マリアナ諸島、グァム島サイパン諸島に配備予定の14 師団が満州より4 月26日に移動して来た。

日本軍は米軍がフィリピン奪回の支障になるパラオ諸島に先ず来寇すると考えていたが1944 年6月、先にマリアナ諸島、グァム、サイパン、テニアンに上陸、それに対応して出動した日本海軍がマリアナ沖海戦で大敗した為、パラオ諸島の3 つの飛行場は飛行機の補給を断たれ、戦略的価値を失ってしまった。しかしニミッツ太平洋艦隊司令長官はフィリピン進攻への脅威を重視し、航空戦力の壊滅したパラオ諸島は脅威にならないので攻略せず包囲するのみにして直接中部フィリピンを攻めるとするバルゼー提督のパラオ諸島迂回案を退け侵攻を決定し、1944 年9 月15 日アメリカ第3 水陸両用軍団のペリリュー島侵攻作戦(作戦名 スティルメイトⅡ)が開始された。

監修責任者  横山 高司



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横山高司により複製したレプリカとなります。

第二連隊軍旗                 

この軍旗は明治7 年(1874 年)11 月、大日本帝国陸軍創立時に明治天皇より親授され、その後西南戦争、日清、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争など日本が戦った殆ど全ての戦役に参加し、ペリリュー島中央山地洞窟内で奉焼される迄、70 年の光輝ある歴史を持つ。

軍旗は連隊が創設される毎に作られ時の天皇自らが宮中において軍人に授与する伝統が有り、授与された軍人は旗を天皇の象徴と考え、いかなる場合においても紛失する事は許されず、戦場においては軍旗を持つ旗手と旗を護衛する軍旗小隊に守られ殆んどの場合、連隊司令部と行動を伴にした。連隊旗手は眉目秀麗、成績優秀、日常生活態度誠実な中. 少尉が務め、その任務につく事は最大の名誉とされた。

軍旗は連隊旗とも呼称され戦場に翻る為、敵の弾丸や風雪にさらされ多くの軍旗は布地部分を失い、竿と菊花形竿頭と布地の外縁にある房の部分のみが残った。第二連隊軍旗もそういった状態であったが、戦場で軍旗を敵手に委ねる事は最大の恥辱とされる日本帝国陸軍の伝統に基づき組織的戦闘力を失った1944 年11 月24 日午後奉焼され、中川大佐はそれを確認の後自決し、残存将兵56 名はその後3 日間の遊撃戦の末全滅して、伝統ある栄光の軍旗と運命を共にした。

監修責任者  横山 高司

11月までの報告事項

①ペリリューマップ ②ペリリューマップ ⑦見積詳細(設計図)1 ⑧見積詳細(設計図)2
英訳業務

ペリリュー島の人々とプロジェクトへ
先月、横山高司氏がパラオ共和国ウエキ特命全権大使と会議を行い、ペリリュー島の人々と共に博物館の改修プロジェクトを行うことが決まりました!現地の施工会社と日本の設計会社による共同プロジェクトとして、現在は施工プロジェクト概要の英訳を行っております。

ペリリュー戦争博物館の展示物記事について小学館様および防衛庁資料館のご協力により、ペリリューの戦いにおける概要および戦争経過の情報及び記事を頂くことができました。

展示物の英訳について
防衛庁の軍事関係の英訳を専門的に行う方のご協力により英訳を特別に行って頂くことができました。

ペリリュー戦争博物館の設計・施工について
こちらも順次進んでおります。

これにより、戦争博物館の目玉となる連隊旗と、展示パネルの製作がほぼ決まりました。加えて、展示物として模造品などで展示スペースの充実を現在考えております。皆様のお力でここまでこれましたこと誠に感謝いたします。今後とも皆様からのご寄付やご協力を賜りたくよろしくお願いします。

靖国神社の本殿にて昇殿参拝及び日章旗のお祓い

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本日は、靖国神社の格別なご厚意により、本殿にて昇殿参拝及び日章旗のお祓いを行いました。

靖国神社の御神体である大きな神鏡の前で、神職による日章旗の入魂及び祝詞の奏上を行い、これからの前途を祈願致しました。

これからパラオ諸島ペリリュー島の地へと向う日章旗は、正式に護国神社を代表する靖国神社にてお祓いを受けまして、来年の夏頃には日本を離れる予定となっております。ペリリュー戦争博物館に寄贈されたのちは、未だに日本へ帰る事無くペリリューの地で守り続けている英霊達の心の拠り所となり、その旗を目印にして心安らかに眠って下さることを私たちは願っております。

これは父・横山高司の後日談ではございますが、日章旗の入魂及び祝詞の奏上の最中に、若い兵隊さんと中年の兵隊さんが、すっと日章旗に入っていくお姿を、心の中で見ることができたそうです。

ペリリューの戦いでは10,022名の日本人が命を落としました。1944年11月24日に司令部は玉砕を決定、中川中将が自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われたそうです。

最後の55名になったとき、最後の聯隊旗主となった烏丸少尉はどんな思いでこの聯隊旗を燃やしたことでしょうか。「日本の地には戻れずとも、夜鬼となってこの地を守り続ける」と言い残して、55人の部隊を13組に分けて最後の特攻を行ったそうです。「その思念は夜鬼となって今でも洞窟に留まっている」とある方は申しております。

これも父の後日談ですが、「この聯隊旗を作りたい」と初めて人にお話をした際、英霊の御声を聞くことができる方がそっと父におっしゃったそうです。「皆様、待っておりますよ」。本当であるか嘘であるかはわかりませんが、戦後68年経った今でも、日本に帰ってきていない英霊がまだいるのだということを「信じる」ことも、大切に思いました。今後ともよろしくお願い申し上げます。


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横山高司と日章旗
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