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展示パネル一部 是非ペリリュー博物館でご覧ください

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縮小版のみアップしております。パネルはペリリュー博物館にてご覧いただけます。

米軍侵攻前の状況と日本軍の方針

第一次大戦後、ドイツ領であったパラオを含むカロリン諸島は日本の委任統治領となり、日本の統治下コロール島に南洋庁が置かれ1943 年には6,000 人の島民と23,000 人の日本民間人が居住していた。

1941 年12 月の日米開戦以来半年間、日本軍は各地で戦勝を収め広大な地域を占領したが、1942 年6 月のミッドウェー海戦に大敗し、その後戦局は加速度的に悪化の一途を辿り、ソロモン諸島や東ニューギニアを失い、1943 年11 月にはギルバート諸島のマキン島、タワラ島の守備隊が全滅、1944 年2 月17 日には日本軍の一大根拠地であったトラック島が米海軍機動部隊の空襲を受け機能を失い、周辺のマーシャル諸島、クェゼリン島、ルオット島も米軍占領下となった。

日本海軍が意図していたトラック島を根拠地とした作戦は不可能になり、替りにパラオ諸島に根拠地を移す事になったが、1944 年3 月30 日米海軍機動部隊はパラオ諸島にも空襲を加え日本軍の所在船舶、航空兵力は壊滅した。

日本軍の計画では、1944 年春までに太平洋上の日本軍が確保している島々にある飛行場に、航空部隊を主とする反撃戦力を整備し、米軍に対抗する予定であった。その為には、島々の飛行場を確保せねばならず陸軍兵力を重要な島々に配置する事となった。

日本陸軍は、主力を中国大陸に置いていたが、遂事一部兵力を太平洋方面に兵力を移動する事となり、パラオ諸島にも最初マリアナ諸島、グァム島サイパン諸島に配備予定の14 師団が満州より4 月26日に移動して来た。

日本軍は米軍がフィリピン奪回の支障になるパラオ諸島に先ず来寇すると考えていたが1944 年6月、先にマリアナ諸島、グァム、サイパン、テニアンに上陸、それに対応して出動した日本海軍がマリアナ沖海戦で大敗した為、パラオ諸島の3 つの飛行場は飛行機の補給を断たれ、戦略的価値を失ってしまった。しかしニミッツ太平洋艦隊司令長官はフィリピン進攻への脅威を重視し、航空戦力の壊滅したパラオ諸島は脅威にならないので攻略せず包囲するのみにして直接中部フィリピンを攻めるとするバルゼー提督のパラオ諸島迂回案を退け侵攻を決定し、1944 年9 月15 日アメリカ第3 水陸両用軍団のペリリュー島侵攻作戦(作戦名 スティルメイトⅡ)が開始された。

監修責任者  横山 高司



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横山高司により複製したレプリカとなります。

第二連隊軍旗                 

この軍旗は明治7 年(1874 年)11 月、大日本帝国陸軍創立時に明治天皇より親授され、その後西南戦争、日清、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争など日本が戦った殆ど全ての戦役に参加し、ペリリュー島中央山地洞窟内で奉焼される迄、70 年の光輝ある歴史を持つ。

軍旗は連隊が創設される毎に作られ時の天皇自らが宮中において軍人に授与する伝統が有り、授与された軍人は旗を天皇の象徴と考え、いかなる場合においても紛失する事は許されず、戦場においては軍旗を持つ旗手と旗を護衛する軍旗小隊に守られ殆んどの場合、連隊司令部と行動を伴にした。連隊旗手は眉目秀麗、成績優秀、日常生活態度誠実な中. 少尉が務め、その任務につく事は最大の名誉とされた。

軍旗は連隊旗とも呼称され戦場に翻る為、敵の弾丸や風雪にさらされ多くの軍旗は布地部分を失い、竿と菊花形竿頭と布地の外縁にある房の部分のみが残った。第二連隊軍旗もそういった状態であったが、戦場で軍旗を敵手に委ねる事は最大の恥辱とされる日本帝国陸軍の伝統に基づき組織的戦闘力を失った1944 年11 月24 日午後奉焼され、中川大佐はそれを確認の後自決し、残存将兵56 名はその後3 日間の遊撃戦の末全滅して、伝統ある栄光の軍旗と運命を共にした。

監修責任者  横山 高司
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